ベッケンバウアーが語った若き日のデットマール・クラマーとの思い出

配信日:2015/09/21 01:50 Written by 土佐 堅志
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ベッケンバウアーが語った若き日のデットマール・クラマーとの思い出
FRANKFURT AM MAIN, GERMANY - OCTOBER 08: Head coach Dettmar Cramer looks on during the DFB Writers League match between Germany and Argentina on October 8, 2010 in Frankfurt am Main, Germany. (Photo by Jan Huebner/Bongarts/Getty Images)
1964年メキシコ五輪では日本代表の監督を務めて銅メダル獲得に導き、その他にも長年に渡って日本サッカーの発展に尽力したデットマール・クラマー氏が17日亡くなった。「日本サッカーの父」とも呼ばれる同氏は、日本だけでなく世界中の国々、そして彼の母国ドイツでもサッカーコーチとして多大な功績を残した人物であり、それだけに同氏の訃報はドイツでも大きく報じられた。19日、ドイツの大衆紙『ビルト』のインタビュー取材の中でドイツの往年の名選手であったベッケンバウアー氏(70)が若き頃のクラマー氏との思い出を語っている。

ベッケンバウアー氏とクラマー氏が初めて知り合ったのは、クラマー氏が西ドイツのユース代表監督を務めていた頃だった。当時17歳だったベッケンバウアー氏には既に子供が一人いた。17歳で子供がいるような選手を果たしてユース代表の一員として選ぶべきなのか。西ドイツサッカー協会内でもこの件について議論が重ねられ、最終的にベッケンバウアー氏がある一つの条件を受け入れることでユース代表に加わることが許されたという。その条件とは、ユース代表の活動中は監督であるクラマー氏と同じ部屋で生活することだった。「彼は、私が間違った道に進むことがないよういつも気に懸けてくれていた」とベッケンバウアー氏は当時を回想している。

二人の交流はその後も続く。1966年のW杯イングランド大会。今でも語り継がれているジェフ・ハーストの疑惑のゴールによって決勝でイングランドに敗れて西ドイツは惜しくも準優勝となった。その西ドイツ代表の中で中盤のアンカー役としてチームを牽引したのが当時20歳のベッケンバウアー氏であり、アシスタントコーチとして主に戦術の分野を担当したのがクラマー氏だった。また、クラマー氏はその後ベッケンバウアー氏が所属していたバイエルンミュンヘンでも監督として指揮を執っている。「彼はバイエルンのクラブ史の中で最高の監督の一人に数えられるべきだし、西ドイツ代表でも斬新な戦術を幾つも考案していたんだ」(ベッケンバウアー)。今では当たり前となっているが当時はまだどこのチームも取り入れていなかった素早い攻守の切り替えや壁パスなどをクラマー氏は既にこの時からチーム内に戦術の一環として取り入れていたという。

数年前の冬に一度だけベッケンバウアー氏はクラマー氏のもとを訪れたが、結局それが最後の別れとなった。「最近は健康状態があまり良くないという話は聞いていた。安らかな眠りにつけたではないかと思う」という悼みの言葉でベッケンバウアー氏はインタビューを締めくくった。かつて、「私はサッカーが好きなのではなくサッカーを心から愛しているんだ」と語ったクラマー氏。そのサッカーにかける情熱と多大な功績は、いまもなお語り継がれている。稀代の名将の冥福を心から祈る。
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